10分ほども立ち尽くしていただろうか。
その絵はジワジワと僕の内側へと入り込んできた。
当時僕はアルバイト生活の貧乏暮らしをしていて、
たまたま入った書店で見つけたその1万5千円程の画集にはとても手が届かなかった。
パラパラとベージを捲って行くうちに、1枚のハヤブサのページで手が止まった。
当時の僕はハヤブサを撮影する事に強い憧れを持っていて、その興味からその絵に目を留めたのだか、
ふと手元から少し画集を離し絵を眺めていると、どんどんその世界に引き込まれていくのだった。
画集の見開きいっぱいにレイアウトされた、『飛び立つ前ーハヤブサ』と題されたその絵から目がはなせなくなっていた。
海霧の断崖に佇むハヤブサが上空を見上げ、飛び立つ直前の様子を描いた作品なのだが、
その絵を見ていると実際には描かれていない断崖の高さや、岩場に打ちつけ、ゆっくりとしたリズムで聞こえてくるはずの波音、
更には海霧の湿った冷涼な空気や磯の香りまでが漂ってくるかのようで、 いつの間にか僕は絵の中の海岸を“旅”していたのだった。
そんな体験は初めてのことだった。
作家の名前はロバート ベイツマン。
カナダを代表する野生生物画の第一人者で、偶然にも僕の好きなアンドリュー ワイエスから影響を受けた人物だった。
実に不思議な感覚だった。
平面上に描かれた、しかも印刷物の絵の中へと入り込めたのである。
それは、実は当時僕が抱いていた疑問へのある一つの確かな答えでもあった。
その疑問とは、
なぜ絵を描く必要があるのか?
という、ただ一点についてだった。
写真がない時代ならば絵の必然性はもちろんあっただろう。
しかしながら、現代に於いて、写真ならば数百分の一、数千分の一秒で記録されるべきものが、
絵を描くと何年という時間と労力を要することになるかもしれない。
そこに何らかの意味を見出だすことが出来なければ、僕はその道へ進むことが出来ないと思えていたのだ。
そう、僕はなぜ「飛び立つ前」の中に海霧特有の湿度すらも想像することが出来たのだろう。
たぶん絵には、表現者の感性という、人のフィルターを一度通して加えられる、または省かれる、
ことによって生じる“何か”が付加されているのだろう。
故に、それを観る側の感性への浸透深度もより深まるのではなかろうか。
ひいては、写真と絵、どちらの表現方法が優れているという問題ではなく、
つまりは方向性と目的の違いなのだということに、その時初めて自分なりに気がついたのだと思う。
そして、僕が表現したいと考える世界には絵の持つ表現性がより馴染み、
そこへと至るチャレンジの意義に自分自身が納得出来るだろうことに思い至ったのだった。
絵の道を歩いてみよう。
そう心密かに決めたのは正にこの瞬間だったと思う。
この時期に僕に起きていた一連の出来事を俯瞰し、改めて反芻するならば、
それは小さな支流同士が出会い、やがては一つの力強い本流へと姿を変え流れていく、川の様子そのものだったように思える。
つまりは、僕に起こったそれぞれの出来事が本来の人生の目的に向かって収れんされていく一過程だったのだと、
今ではそのように思えてならない。