もう40年程も使い続けている。
未だに穴が空く様子も、取っ手が壊れてしまう気配もないから、もしかすると生涯に渡って使うのかもしれない。
不思議なものだ。
見掛けはプラスチックのただの筆洗なのだが、過ぎた歳月と共に“個性”すら感じさせてくれるようになる。
そんな感覚を愛着という言葉で呼ぶのだろう。
僕が小学生当時、図画の時間に使う筆洗といえば、それぞれの家庭で作ったもの、
ジュースの空き缶の上をくり貫いてそれを3つ組合せて針金で繋ぎ合わせたものだった。
それが次第に便利で“スタイリッシュ”なプラスチック製に置き換わり、小学高学年頃にはそれがクラス内の主流になっていた。
そんなある日、壊れかけた父親お手製の筆洗の代わりに母が買って来てくれたものがこの筆洗だ。
取っ手に書かれていた“北陽小 増田”の文字もすっかり薄れてしまったが、あの時の嬉しさを今も忘れない。
決して裕福な状態ではなかったはずなのに、どうして母はこれを僕に買って上げようと思いついたのだろう。
そのことを今も思う。
あれからもう40年も一緒にいる。
よく壊れなかったものだ。
その間に僕自身のいろいろなものが“壊れ”、しかし、絵を描く時も、描けない時もいつも傍らにこの筆洗は存在していた。
今はただの“ガラクタ”にしか見られかねない“もの”に自らを重ね合わせている自分が少し可笑しい。
人生を歩いていると様々な“景色”に出逢う。
それは、日々の天気、移ろう季節の中で自らを深め歩む、長い旅のようなものかもしれない。
これまでに僕が出逢った、
“旅の景色”について書いていけたらと思う。